点と四角でダンスの空間意識を身体に入れて踊りを変える

獅子会のSHIGEです。今日は、ダンスの中で俺が大事にしている点と四角について書きます。
これ、ただの位置取りの話ではありません。足をどこに置くか。身体をどこへ運ぶか。自分が今どこに在るか。そこが見えてくると、同じ振付でも踊りの深さが変わります。
「振付は覚えたのに、なぜか薄く見える」
「動画で見ると、自分だけ流れている気がする」
「上手い人と同じことをしているのに、何かが違う」
こういう感覚があるなら、技の数だけを増やす前に見てほしいところがあります。
自分が今、どの点に立っているのか。
そこです。踊りは、気持ちだけで大きく見せるものではありません。身体がいる場所、向かう場所、止まる場所がある。
その現在地が曖昧なまま頑張ると、努力しているのに踊りが浅く見えてしまうことがあります。
浅く見えるのは、センスだけの問題ではない
ダンスをしていると、どうしても「センスがある人」と「自分」を比べてしまう時があります。
あの人は同じステップでもかっこいい。自分は頑張っているのに、何か弱い。そう感じることはあると思います。
でも、そこで全部をセンスのせいにしてしまうと、見る場所を間違えます。もちろん感性は大事です。音の取り方も、表情も、空気の出し方もあります。でも、それ以前に身体が空間をどう扱っているかがある。
たとえば、足を一歩出す。ただそれだけでも、どこから出て、どこに着くのかが曖昧だと、動きは流れて見えます。逆に、点を取りにいく一歩は、派手ではなくても濃く見えます。観ている人の目に、そこへ置いた意味が伝わるからです。
踊りが薄く見える時に見たいこと
- 足を置く場所が、毎回なんとなくになっていないか。
- 動きの始まりと終わりが、身体の中で決まっているか。
- 自分の前後左右に、見えない基準を持てているか。
- 止まる場所を決める前に、勢いだけで動いていないか。
この確認は地味です。でも、ここを通らずに技だけ増やしても、踊りは変わりにくいです。要は、外側の形を増やす前に、身体の中に基準を作るということです。
変わる瞬間は、ほんまに小さいところに出る
レッスンを見ていると、急に踊りが変わる瞬間があります。大技ができた時ではありません。ほんの一歩です。フロアから立ち上がる時の足の置き方。止まる前の重心の残し方。手をつく場所の迷いが消えた瞬間。
そういう小さいところが変わっただけで、踊り全体が急に濃く見えることがあります。本人は「え、そこですか」と思うかもしれません。でも、そこやねん。踊りは大きいところだけでできていません。
観ている人は、無意識にその小さい迷いを見ています。足が流れた瞬間、身体の言葉が少し曖昧になる。逆に、点が決まった一歩は、言葉にしなくても伝わります。「あ、今ここに置いたんやな」と目が受け取る。
だから、俺は小さいことを大事にします。小さいことを雑にして、大きい表現だけを作ろうとしても、どこか薄くなるからです。
一歩の中に、その人の意識が出ます。
この一歩をどう見るかで、練習の質は変わります。回数を増やす前に、今の一歩を深く見る。そこから踊りは変わります。
点は、今どこにいるかを見る入口

点というのは、難しい理論ではありません。足を置く場所、手をつく場所、重心が乗る場所、身体が向かう先です。でも、この点をちゃんと取ろうとすると、急に踊りが雑にできなくなります。
たとえばフロアから立ち上がる時。なんとなく足を出して立つのと、ここに足を置くと決めて立つのでは、全然違います。見ている側には、一瞬の差かもしれません。でも身体の中では、起きていることがまったく違います。
2点が分かると、動きに方向が出る
まずは2点です。今いる点と、次に向かう点。この2つがあると、動きに「ここから、ここへ」が生まれます。これがないと、ただ足が出ただけになります。自分では動いたつもりでも、観ている人には流れたように見える。
2点がはっきりすると、同じステップでも重みが出ます。踏んだ場所に、自分の意思が乗るからです。
3点が見えると、軌跡が生まれる
次に3点です。出発点、途中の点、到着点。ここまで見えてくると、動きが線になります。床に手を置く点。踏み出す足の点。立ち上がった先で重心が乗る点。これらがつながると、ただの移動ではなくなります。
踊りの中に、道筋が見えてくるんです。そこが見えると、観ている人も引き込まれます。
点を取ることは、踊りの現在地を取ることです。
四角は、自由を狭める枠ではない

点と一緒に大事なのが四角です。四角というのは、自分の周りにある見えない枠のことです。前、後ろ、右、左。角、辺、中心。自分がどこにいて、どの方向へ抜けていくのか。
この四角を持つだけで、スタジオの広い空間が、ただの広い場所ではなくなります。自分の居場所ができます。自分が今どこに立っていて、次にどこへ動くのかを身体で扱えるようになります。
これは自由を狭めるための枠ではありません。むしろ逆です。枠があるから、自由に遊べるんです。子どもの頃のケンケンパを思い出すと分かりやすいです。マスがあるから、どこに跳ぶかが分かる。ルールがあるから、身体が遊べる。
ルールが何もない状態を自由だと思う人もいます。でも、身体が迷子になっている自由は、ほんまの自由ではありません。どこに立っているかが分かるから、思い切って外へ出られる。
四角は、そのための基準です。基準があるから、崩すこともできます。戻ることもできます。広げることもできます。
これは、ステージでもスタジオでも同じです。自分の四角がないまま広く動くと、大きく見せているつもりでも散らかって見えます。
でも、自分の四角がある人は、小さく動いても存在感があります。動いた距離より、どの枠をどう使ったかが見えるからです。
この感覚は、子どもにも大人にも必要です。自分の場所を持つということは、自分を小さく閉じ込めることではありません。
むしろ、自分の場所を知っているから、隣の人の場所も見えるようになります。そこから、場を大事にする感覚も育っていきます。
浮島の感覚で、一歩の重みが変わる

レッスンでは、「床がないと思ってみて」と伝えることがあります。そこが浮島だったら。足場が限られていたら。踏み外したら戻れない場所だったら。
そう想像した瞬間、足の置き方は変わります。なんとなく踏めなくなるからです。足裏のどこで床を受けるのか。どの点に体重を乗せるのか。身体が自然と探り始めます。
これが大事なんです。広い床があると、人はどうしても「だいたいこの辺」で動いてしまいます。でも、浮島の感覚が入ると、だいたいでは済まなくなります。視線、呼吸、足裏、重心が、一つの点に集まります。
「ここに置く」
「ここで止まる」
「ここから次へ行く」
この感覚が身体に入ると、実際の床に戻っても踊りが変わります。床は同じでも、踏みにいく意識が変わっているからです。
派手な技を増やしていないのに、急に踊りが濃く見える時があります。そういう時は、だいたい一歩の質が変わっています。
たった一歩。でも、その一歩にどれだけ意識が通っているか。そこに、その人の踊りが出ます。
顕微鏡と全体像を行き来する

点と四角を見ていく時、俺は細かいところもかなり見ます。手の向き、足の置き方、胸の角度、視線、重心。
そういう細部を見る目を、俺は顕微鏡のようなものだと思っています。
でも、細かいところだけ見ていればいいわけではありません。踊り全体の流れ、音、空気、どこで見せるかも大事です。つまり、顕微鏡と全体像を行き来するんです。
細部だけに入ると、踊りが小さくなります。全体だけを見ていると、細部がぼやけます。手の角度一つにも意味がある。でも、その手が踊り全体のどこにあるのかも見る。そこを行ったり来たりする。
これができると、踊りの解像度が上がります。解像度が上がるというのは、ただ細かいことを知っているという意味ではありません。自分の動きの理由が分かってくるということです。
なぜここで止まるのか。なぜここで抜くのか。なぜこの点に足を置くのか。
理由のある動きは、観ている人に届きます。
技ができることと、使いこなすことは違う

新しい技ができるようになるのは嬉しいです。そこは否定しません。できなかったことができるようになるのは、ほんまに楽しい。でも、技ができることと、その技を使いこなすことは違います。
どの音で出すのか。どの点から始めるのか。どこで止めるのか。どこで抜くのか。ここまで見えて初めて、技は表現になります。技だけが前に出ると、見ている人は「すごいな」で終わります。
でも、技の前後にある時間まで扱えると、「なんか残るな」に変わります。たとえばターン一つでも、ただ回れる人と、回る前の溜めから終わった後の立ち方まで見せられる人では違います。
その差は、派手さだけではありません。自分の点と四角を持っているかどうかです。どこに立ち、どこへ向かい、どこで終わるのか。そこがあると、技が道具になります。
技は大事です。でも、技に使われたらあかん。自分が技をどう使うかです。
個の点が、集団の形を作る

点と四角は、ソロだけの話ではありません。集団で踊る時こそ、一人ひとりの点が見えます。振付が揃っているのに、なぜかフォーメーションがぼやける時があります。動きは合っている。でも、図形として締まらない。
その理由の一つは、一人ひとりの足が同じ点を踏みにいっていないことです。なんとなく横に並ぶ。なんとなく前に出る。なんとなく戻る。これだと、全体の形は揃っているようで揃いません。
反対に、全員が自分の点と四角を持っていると、集団の空間がはっきりします。一人の足元の点が、隣の人との距離を作ります。その距離が、全体の線になります。全体の線が、見ている人に図形として届きます。
だから、個を育てることと集団を揃えることは別々ではありません。個が曖昧なまま集団だけ揃えようとすると、形だけになります。
獅子会で基礎を細かく見るのは、個を小さくするためではありません。個の解像度が上がるほど、集団の表現も強くなるからです。
集団の美しさは、個の現在地の集合です。
一人では気づきにくいところがある

ここで誤解してほしくないのは、一人で練習することが悪いという話ではないことです。一人の練習は必要です。反復も必要です。家で確認する時間も大事です。
でも、自分の癖は自分が一番見えにくい。これはほんまにあります。鏡で見える角度は限られています。動画を撮っても、見ている自分の基準がズレていたら、同じところを見落とします。
だから、見てもらうことには意味があります。誰かに正解を預けるということではありません。自分では気づけない点、自分では見えていない四角を、一緒に確認するということです。
レッスンで見ていること
- 足を置く点が、身体の中で決まっているか。
- 四角の中心、角、辺を意識して動けているか。
- 重心が流れているのか、狙って移動しているのか。
- 細部と全体像を行き来できているか。
- できない自分をごまかさず、もう一回戻ってこられるか。
獅子会で大事にしているのは、ただ直される時間ではありません。自分で気づける身体を育てることです。言われたからやる、では弱いです。あ、そういうことやと自分の身体で分かる。ここまでいくと、練習の意味が変わります。
親が見る時も、結果だけに寄りすぎない

子どもが踊っている場合、親はどうしても結果を見ます。前より上手くなったか。周りと比べてどうか。先生に褒められたか。それが気になるのは自然です。応援しているからこそ、伸びてほしいと思う。そこは悪いことではありません。
でも、結果だけを見ていると、子どもの中で起きている小さい変化を見落とすことがあります。今日は足の置き方を自分で気にしていた。できない動きに出会っても、すぐ投げずにもう一回戻っていた。
人の話を聞く姿勢が少し変わった。踊った後に、自分の身体を雑に扱わず確認していた。こういう変化は、順位や点数にはすぐ出ません。でも、ダンスを続ける土台になります。
親がそこを見られると、子どもは外側の評価だけで自分を決めなくてよくなります。今日の100点を見る。今の現在地を見る。火を消さずに、でも当たり前のことはちゃんとやる。
これは、獅子会で大事にしている見方です。点と四角は、踊りの話でありながら、子どもを見る時の視点にもつながっています。
踊りは、在り方まで出てしまう
俺は、ダンスを技術だけで見ていません。身体の使い方、心の状態、言葉、場の空気、誰に触れているか。
そういうものが全部、踊りに出ると思っています。
点を取る時にも、その人の在り方が出ます。雑にごまかすのか。できない自分を見て、もう一回戻るのか。四角を持つ時にも出ます。自由を言い訳にして迷子になるのか。基準を持った上で、のびのび遊ぶのか。
ここは、ダンスだけの話ではありません。日常でも同じです。自分が今どこにいるかを見ないまま、理想だけ追いかけると苦しくなります。まず自分の現在地を見る。今日の100点を見る。言っていることと、やっていることを合わせる。
俺は、こういうことをダンスを通して伝えたいと思っています。
在れば成る。外側の動きを足す前に、自分の在り方を見る。そこが整うと、同じ練習でも入り方が変わります。
俺自身も、ずっと学び直しています。昔の感覚だけで止まっていたら、生徒に触れてもらう言葉も古くなってしまうからです。ここも、ほんまに言行一致です。
点と四角は、その入口です。自分の身体がどこに在るかを見る。その小さい確認から、踊りも生き方も変わっていきます。
ルールを知るほど、自由に踊れる

ダンスは自由です。でも、ほんまの自由は、ルールを知らないまま暴れることではありません。点を知る。四角を知る。重心を知る。音を知る。場を知る。自分の今日の身体を知る。
そこまで見えてくるから、自由に遊べるんです。初心者でも、経験者でも、ここは変わりません。今の段階に合った点があります。今の身体で見える四角があります。
だから、焦らなくていいです。でも、なんとなくで流し続けるのはもったいない。一歩を置く。今いる場所を見る。次に向かう点を決める。その積み重ねが、踊りを深くします。
もし今、自分の踊りをもっと深めたいと思っているなら、まずは点と四角から見てみてください。技を増やす前に、自分の身体の現在地を知る。そこから始めるだけで、レッスンの受け取り方は変わります。
何に触れるか。どこに身を置くか。誰と出会うか。
これは、ほんまに大事です。踊りも、人も、触れているものに育てられます。
SHIGE
